『鈴の音の響くところ』 くまっこ

 蔭風が吹いて、畦道を歩いていたスズリは足を止め身震いをした。羊の毛が織り込まれたストールを、風が入り込まないよう頭から胸元まで巻きなおすと、天鵞絨の蒼いスカートがフワリと揺れる。白くなりかけの息をふうと吐いて、スズリは眼前に広がる畑を見渡した。田畑の作物はあらかた収穫され、吹きすさぶ風が乾いた土を撫でている。
「作業は予定通りに進んでいるわね。今年は気候がよかったし」
 安心安心、と独りごちて、スズリは地平線の先、その空を望んだ。
 遠い空の向こうに、黒い影が現れている。陽光を遮断する漆黒の影。とてつもなく大きなそれは、スズリの暮らす国の隣まで近づいていた。
「蔭季節が来る」
 スズリは誰に言うともなく呟く。その手には、世界儀と呼ばれる小さな球が握られていた。

 この世界の中心には天高く聳える塔があり、塔を中点として世界は十字に境を切られている。スズリはそのなかの一つ、グレコ国に仕える家の娘だった。
 天まで伸びる塔は果てしなく、どこにいてもその姿を眺めることができる。
 世界の中心――塔に背を向けたスズリは、地上と水平に右腕を伸ばした。上に向け広げた手のひらにはちいさな球状の世界儀が静かに佇んでいる。
 ガラス球のなか、文字盤には四つに分たれた国と、世界を囲うように配置された数字が均等に並ぶ。その上で揺れる真っ直ぐに伸びた針はやがて止まり、六〇という数字を指し示した。
 ――今から六十日後に、この国は完全な闇に覆われるのだ。


「外は寒かったでしょう」
 スズリが暖炉の前でストールをほどいていると、茶器を載せたワゴンを押して、ひとりの少年が部屋を訪れた。少年は慣れた手つきでテーブルに茶器を調えると、二つのカップに茶をそそぎ、スズリに座るよう手で促す。香り立つ茶の香りに惹かれるようにスズリが席に着くと、少年も向かいあわせに座った。
「ありがとう、スミ」
 スミと呼ばれたその少年は、スズリの一つ違いの弟だ。
 スズリはこの家の長子で、やがて当主になる身の上。血を分けた弟は、跡継ぎであるスズリの身の回りの世話を仰せつかっている。それが、代々国に仕える呪い師、鈴音の家の習いだった。
「視察もほどほどになさいませ。大切なお体なのですから」
 ほら、こんなに冷たい。と、スミはスズリの手を自分の両手で包むと、懐から出した温石をその手に握らせる。
「あたたかい……」
 つい、スズリの口から声が漏れた。スミは大ざっぱな姉と違い、繊細で優しい。いつでも細やかに姉を気遣い、いつでもスズリをあたためてくれる。
「明日の旅立ちは朝早いのでしょう? いま、温石をたくさん用意させていますから」
「よくできた弟だこと。姉は感動しているわ」
「どういたしまして」
 大きな行事の前に変わらぬやわらかさで接してくれる弟が、スズリには嬉しかった。
 幼い頃から跡継ぎとして強くあれと育てられたスズリは、そこで培った気の強さゆえに、身近な者に素直に言葉を紡げない。そんな自分の気持ちを、理解し素直に受け止めてくれるのは弟だけだった。
 スミは常にスズリの心を読み解き、穏やかに過ごせるよう計らってくれる。
「長旅になるから、故郷を目に焼き付けておきたかったの」
 ――帰って来られる保証なんてどこにもないのだから。
 スズリは曖昧な笑顔をスミに向けると、浮かんだ弱音を茶と一緒に飲み干す。黍糖で優しく甘味づけられた茶は、胸に確かなあたたかさを残してスズリの体に収められた。

 翌日早朝、藍に染められた衣装に身を包み青毛に騎乗したスズリは大きな荷馬車を引き連れ、遥か国の果て、世界の中心、天高く聳える塔に向かい出立した。


――続きは本誌でお楽しみください――

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