『止まない風』 まりも

 東から吹く風は、我が国土を苛み、やがてはすべてを滅ぼすであろう。今こそ決起のときである――
 今となっては西のこの国で忌み嫌われている呪詛のような文言、それを今でも胸に抱いて決して離さない男がいた。寒風吹く街角で、猛暑の川べりで、そして自分が寝食する公園で、彼はこの言葉を繰り返す。
「東から吹く風は」
 男のそばを通りかかるとき、ほとんどの人は耳をよぎる不快にかすかに顔をしかめつつ、彼など存在しないかのような無関心を装い足早に通りすぎる。時には遠くから小石をぶつけるものもいるが、それもごくまれなことだ。大抵のものは日々の忙しさにかまけ、または自分の周りの小さな幸せに目を奪われ、彼のことを見ようともしない。男は透明な存在だった。時折、通りかかった小さな子供が母親に尋ねる。ねぇ、あのおじさんが言っている東から吹く風って何のこと? すると母親はこう答えるのだ。
 昔、あの人と同じ話を広めて国を乱した王とその仲間がいてね、彼らの言うことを聞いて、私たちの国はお隣の国と戦うことになったの。たくさんの人が死んだのよ。あんな言葉は、絶対に聞いてはだめ。
 じゃあ、あの人は悪い人なの? そう尋ねる子供に、母親は断固とした口調で言う。
 ああいうことを言う人間に決して近づいてはだめよ。残忍で凶悪な、頭がどうかしている人間に違いないのだから。


 東から吹く風に捕らわれて、消えていった人たちを何人見送っただろう。寝起きしている公園に程近い川沿いのべンチに腰掛けて、カイはゴミ箱で拾った週刊誌の切抜きを眺めていた。これを発見してからというもの、心ここにあらずなまま、ほとんど眠ることすらできずにいた。目の前を流れる大きな川の向こうには東の国へと続く高速道路が開通し、ひっきりなしに車が行きかっている。そしてその背後には、高く聳える巨大な建造物がにょきにょきと姿を現し始めていた。
 東から吹く風はいまだ止んではいない。戦いは終わりを迎え、東からの災いを声高に叫んできた大臣たちは捉えられ、国王は捕縛、幽閉された。そして荒れ果てた国土の上を吹きぬける風は、あっという間に街を塗り替えていった。呪詛の消失とともに、人々は東から吹く風の熱をおおいに歓迎した。そうした一切の変遷をカイが理解しなかったわけではない。あの言葉に縛られ、苦しめられた人々が前に進むためには、それに替わる新たな価値を見出すことが必要だったのだ。かくしてこの国の人々は、東から吹くさまざまな風を受け容れた。それは街の外観、社会経済だけにとどまらず、人の心にまで吹き及んだ。
 けれどカイは頑ななまでにその風を拒否し続けた。彼の友人は皆、あの忌まわしい言葉に従い、この国に東の風が及ぶのを阻止するため、身を捨てて戦いに出た人々だったから。そして、その中の誰一人として彼のもとに戻ってくるものはなかったから。自分ひとりがここでのうのうと生ぬるい風を享受することなど、できるはずがなかった。東の風は今まさに、彼と彼の同胞たちが若かりし時に信じていたものすべてを吹き流そうとしている。過去も、自分たちが命を賭して守ろうとしたことも、その一切を持ち去って、その代わりに何か巨大でとんでもなくばかげたものへと挿げ替えていくのだ。呪詛だろうと何だろうと、自分だけはあの言葉を忘れることはできなかった。俺が忘れたら、純粋にこの国を守ろうとした彼らの魂がどうして浮かばれるというのか。そう信じていた。
 それなのに。
 再び、握り締めた手のひらに目をおとす。くしゃくしゃになった週刊誌の記事には、年月を経たあの男の姿があった。ずっと彼との約束を胸に秘めて生きてきたが、彼は結局帰ってはこなかった。きっと戦地で死んだのだろうと思っていた。しかし、あの男は生きていて、もうすぐこの国に帰ってくるという――東の風をこの国へ運ぶものとして。
 空虚とはこのようなことを言うのだろう。自分の人生は、まったくもって空っぽだった。あのとき、皆とともに戦えなかった死にぞこないの自分に今出来ることがあるとすれば。
 カイは水面を見つめながら考えた。
 そうか、そうだ。答えは既にあの言葉の中にあるじゃないか。
 目をぱちぱちさせると、カイはゆっくりとベンチから立ち上がった。
 今こそ決起の時、なのだ。


――続きは本誌でお楽しみください――

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