『彼女の右手』 久地 加夜子

 ランドセルを背負った髪の長い少女が、僕に向かってゆっくりと走ってくる。
 表情はわからないが、見知った顔のような気がする。
 周りを見渡せば、そこは古い団地の一角にある小さな公園で、全てがセピアがかっていた。少女が大きく右手を振った。左手には不似合いなほどに厚い本を抱えている。
 少女は僕に駆け寄ると、肩で息をした。しっかりと本を握る左手と上気した頬が、桜色に染まっている。少女はまだ整わない息をそのままに、手に持っていた本を僕にすすめた。
 僕はその本を受け取った。少し日に焼けて色あせた、背表紙の厚い本。
 誰だかわからない、けれどとても懐かしい感じのするその少女は、嬉しそうに笑った。
 セピア色に染まった世界のそこだけが、熱を帯びたように色彩を放っていた。


 薄暗く湿った図書館の一室で、僕は書棚の整理をしていた。
 黄ばんだり色あせたりした書物たちの背表紙にそっと手をかけながら、それぞれをあるべき場所に並べ直す。傷んだ書物があれば引き抜き、修繕するため分けておく。
 アルバイトを始めてわかったことだが、この図書館では、新規で購入するよりも寄贈された書物のほうが大多数を占めている。おかげで傷んだ本も多く、修理に手間隙がかかる。けれどその分、希少な本も数多く所蔵されているのだが。
 背表紙を撫ぜながら、そういえばこの本はまだ読んだことがないな、と思う。
「羽石さん、そろそろ休憩にしてもいいわよ」
 声に振り向くと、事務服に身を包んだ女性が立っていた。「司書」と記載されたネームプレートが、彼女の胸で揺れている。
「今日はお客様も少ないし、一緒にお茶しましょ?」
 そう言いながら少し顔を傾ける。赤いセルフレームの眼鏡に長い黒髪がかかった。
「はい、冴木さん。今行きます」
 僕は返事をすると、整理途中と書かれた札を書棚に差し込み、奥の司書室へと向かった。
 少し乱雑な司書室には、そこここに本が溢れていた。修理を待つ書物と、新しく仲間入りする寄贈された書物たち。テーブルの上には、書物の他に、冴木さんの好きなお茶菓子が置いてある。
「新しい本が入ったんですか」
 冴木さんがお茶を用意しているあいだ、テーブルに置いてあった数冊の寄贈本を手に取った。どの本も背表紙が薄く変色している。表紙の状態からして、十年かそれ以上は経っているのかもしれない。うち一冊の表紙を開く。ページをめくろうとして、ふと気づいた。
「あれ? くっついてる」
「その本、面白いでしょう。手づくりの隠し収納本よ」
 冴木さんは紅茶を運んでくると、テーブルに置いた。
 表紙には人間の手がデザインされている。少しおどろおどろしい感じだが、そんなに嫌な気はしない。寧ろ寂しい感じがするのは、その手が何かを求めるように見えるからだろうか。
「作るのにけっこう時間がかかるのよ、これ。それに、ハードカバーの本ってお値段張るし、気に入った本じゃないと宝物を隠したいって思わないじゃない? 珍しいわよね」
 彼女はそう言いながらテーブルに着くと、僕の見ている本をそっと撫ぜた。
「この品に思い入れがあるのね、きっと」
 ページをめくると、指が止まった。
 よほど大切にしていたのだろう。一ページ一ページ丁寧にしっかりと貼り付けられ、綺麗にくり貫かれたそこには、綺麗な柄の布でくるまれた方位磁針がひっそりと収まっていた。撫ぜるとひんやりとした質感が伝わってくる。おもちゃだと一見してわかるそれは、なにか懐かしい感じがした。


――続きは本誌でお楽しみください――

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