『ネヴァーランドのわたしたち』 あずみ

 はじめて飛んだ日のことを覚えている。
 恐れをかなぐり捨てた体で勇ましく助走し、広げたつばさで風をつかまえ、足が大地から離れた瞬間のこと――ぐんぐんと高度があがる中、視界の先に広がる空の、新雪のような清らかな白! 不可触のはずの世界に足を踏み入れる興奮に胸を高鳴らせた。
 眼下に広がる緑の牧草地、羊の群れ、茅葺き屋根の家。丘を越えたところに流れる川、泳いでいる水鳥の姿は見えない。
 美しいイングランドの田舎町の上空を、ひらり金属製の鳥は飛んだ。飛行学校の同期の中でいちばんに単独飛行を許されたリリーの周りに他の練習機はなく、早朝の雪原を踏み荒らすこどものようにはしゃいだ気持ちで操縦棹を倒すことができる。
 なによりも自由だ、今の自分は、もしかすると渡り鳥よりも。
 そんなふうに思えたのは若さの為せるわざだっただろうか。欧州全土が大恐慌の余波を受けて暗雲に包まれている時代、リリーはただの幸福な少女でしかなかった。

 さて、今日もリリーの友人、ウエンディ・エアハートは絶好調である。
「ねえ、リリー。格納庫の傍で素敵なものを見つけたの。なんだと思う?」
「……さあ?」
「あなたになら見せてもいいわ。と言いたいところだけど、ばかにはしない?」
 白い頬に愛らしい笑窪を刻んで、ウエンディは首を傾げる。
 ホワイト・ウォルサム飛行場の待機所には女性ばかりが十名強、受け持ちの機の準備が整うのを待ちながら、思い思いにカードや刺繍に興じていた。すっきりと髪をまとめ、水色のシャツに紺のネクタイ、紺のパンツという制服に身を包んだ彼女たちの表情は凛々しくも艶やかで、エリート職業婦人としての誇りに満ち満ちている。
 彼女たちと同じ制服を着ているにも関わらず、ウエンディはどこか異彩を放つ存在だった。五フィートの小柄な体、キャラメル色の巻き毛、ヘーゼルの瞳はいつも『素敵なもの』を探してくるくると動いている。とびきり可愛い子ではあったが、周囲からは浮いており、リリーがいない時、彼女はいつもひとりでいた。ここは女学校ではない、航空輸送補助隊なのだ、イギリス史上初の、同職男性と同じ賃金を受け取れる仕事なのだ、と無言で圧力をかけてくるような空気にはリリーも馴染みづらく、自然と待機中はウエンディとふたりで他愛のないお喋りをするようになっている。
 リリーとウエンディは一九四〇年の二次募集で採用された同期だった。イギリス空軍の基地へ軍用機を輸送する飛行士の職には、資格を満たした多くの女性からの応募があったそうで、まさか自分が採用されると思っていなかったリリーは初日から緊張して口から心臓が飛び出そうだった。
 上司の挨拶と隊員の自己紹介を終えて一息という時、ウエンディの方から話しかけてきたのだ。なんと言っていたかはよく覚えていないが、華のある彼女がどうして地味な自分などを気にかけたのだろうと思ったことは覚えている。
 それ以来、なぜか懐かれてしまった。ひとつ年下――二十二歳にしては少し幼いところのある彼女だが、妹と弟がいるリリーにとって世話係はお手の物、そういうことで、特になにも問題はなかった。
「なあに。リスでも迷い込んでた?」
「いいえ、もっと素敵なものよ。来て!」
 ふたりで待機所をそっと出、飛行場の外れまで移動する。あまり使われていない古い格納庫まで辿り着くと、ウエンディが裏手に回りつつ呼びかけた。
「ティンク。出ておいで!」
「ティンク?」
「ええ。知らないとは言わせないわよ。鋳掛屋のベル!」
 有名な児童文学に登場する妖精の名を、リリーも忘れていたわけではない。しかし、本気で草むらに向かって呼びかけている様子のウエンディを見ると、また空想の虜になって、とあきれ半分、笑ってしまいそうになった。
 ウエンディの後を追いながら、懐かしくその物語を思い返していたリリーだが、ふいに脳裏に閃くものがあって声をあげる。
「ちょっと待って。あんたが最初、わたしに話しかけてきた理由って……」
「ハロー! よしよし、そうよ、怖くないからね」
 リリーの言葉は耳に届かなかったのか、ウエンディは角を曲がり、突然何者かに声をかけた。


――続きは本誌でお楽しみください――

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